【コラム】悲劇の後に歓喜は待っている
途中出場の三笘薫が2度目のゴールを決めた数分後、主審のホイッスルがスタジアム・オーストラリアに響き渡り、日本代表の7大会連続7回目のワールドカップ出場が決まった。
選手達は歓喜の輪を作り、長く険しい戦いを勝ち抜いた事を称え、そしてお互いの労をねぎらう姿を見せたが、喜びを爆発させる選手もスタッフもいなかった。それを体現するかのごとく、試合後のインタビューでキャプテンの吉田麻也は「ホッとした」と口にした。日本代表はワールドカップ出場を義務付けられるチームとなっていた。
1993年10月28日の事だから、もう28年も前の事になる。カタールのドーハで行われたイラクとの一戦において、日本代表はワールドカップ初出場に指が掛かりながらも、後半ロスタイムに失点を喫して、一転奈落の底に落とされる事になった。カズが中山がラモスがピッチに崩れ落ちる姿が今でも脳裏に焼き付いている。あれから28年も時が過ぎているのに。
1997年11月16日の事だから、もう24年も前の事になる。マレーシアのジョホールバルで行われたイランとの一戦において、日本代表は取って取られての接戦を繰り広げた挙句に試合は延長戦へ。なかなかチャンスを決められずに暗雲が立ち込める中、後半13分にその暗雲を呼び込んでいた岡野雅行がゴールデンゴールを挙げて、日本にワールドカップ初出場をもたらした。得点を決めた岡野が両手を広げながら雄叫びを上げ、そしてベンチから全員がピッチに傾れ込むシーンを今でも簡単に思い出す事が出来る。あれから24年も過ぎているのに。
果たして日本代表はそれから7大会連続でワールドカップ出場するチームとなり、そして出場が決まった瞬間に雄叫びを上げる選手もいなければ、近所から「ニッポンコール」が耳に届く事もなくなった。初出場となる1998年(フランス・ワールドカップ)から24年の歳月が経ったのだ。日本を取り巻く環境が変化していて当然であり、それこそJリーグを立ち上げた功績のひとつと言えるだろう。関係者の努力はもとより、時間が多くのものを変えた。いや変えてくれたのだ。
ユベントスがチャンピオンズリーグを最後に制覇したのが1996年5月の事だから、もう26年も前の事になる。それから現在に至るまで、実に5回のチャンピオンズリーグ決勝の舞台に駒を進め、そして5回に渡り辛酸を舐めている。しかしそれも一昔前の話である。今では決勝はおろかベスト4にも進めない時間が続き、昨シーズンまでの直近3大会における最高順位はベスト8。今大会もそれに漏れずベスト16でビジャレアルの前に散る事になり、もはや「悲願のチャンピオンズリーグ優勝」と口にするファンも少なくなった。
日本代表のワールドカップ出場が当たり前になるには、初出場から24年の時を要した。いや、ドーハの悲劇が糧になった事を鑑みると「28年の時を要した」と表現すべきかもしれない。
ユベントスは欧州の主役に躍り出ようとして踊り出る事ができない時間が続いている。その時間を過ごしたユベンティーニはヤキモキしているに違いない。いや、ヤキモキどころではない。ビジャレアルに敗れた後は「今シーズ‘’も‘’ダメだったか」と口にしたファンもいた程だ。
しかし、日本代表が28年の時を経てワールドカップ出場が当たり前になったように、ユベントスにもまたその時が来るかもしれない。いや、来るに違いない。我々は自信を失いつつあるが、誇りはまだ失われていない。
もう少し時間が必要かもしれない、しかしその時を待つとしようじゃないか。そして来たるべく瞬間が訪れたら、皆で両手を広げて雄たけびを上げようじゃないか。‘’当たり前ではない‘’この時間を楽しもうじゃないか。
悲劇の後は歓喜が待っている。
日本人なら誰だって知っている事だ。